特上寿司

1千年以上の歴史があり、すでに奈良時代に存在が知られる。平安時代の『延喜式』(927年)「主計寮式」には諸国からの貢納品が記されており、鮓・鮨の語を多く見出だすことができる。

九州北部、四国北部、近畿、中部地区に多く、関東以北には見られないのが特徴的。魚(または肉)を塩と飯で漬け込み熟成させる「なれずし」であると考えられている。

古代の寿司の推移を見ると、平安時代の寿司は『今昔物語集』の「すし売りの女の話」や「太りすぎた三条中納言朝成の話」の記述によると、寿司は飯部分を除去して食されていたようであるが、

鎌倉時代になると『沙石集』に記述されているように寿司は残り物の魚の加工品として登場し、米食が一般庶民に浸透する室町時代になって登場した「ナマナレ」によって、飯を一緒に食する習慣が生まれたようである。

篠田統は、室町時代の『蜷川親元日記』(1465年-1485年)にみえる「生成(ナマナレ)」という言葉を、発酵が十分でない鮨(鮓)の意味であると理解して、これは、「漬け床」の飯も共に食べるものであるとした。

また、吉野曻雄は、鎌倉時代から室町時代の諸記録や日記にみえる鮨(鮓)は「生成」であるとし、日比野光敏は、「ナマナレ(生成)」の特質は、醗酵期間の短縮だけではなく飯の食用にあり、室町時代にはこれが主流となるとしたうえで、飯を食べないものを「ホンナレ」と称して区別した。この変化は蒸して強飯として食べられていた米を、炊いて柔らかい姫飯として食べるようになった食生活の変化が生み出したとされる。

しかしながら、室町時代以降に「なれずし」の発酵期間が短縮され、また、「漬け床」の飯も食用とされたということを史料で確認することはできない。櫻井信也によれば、奈良、平安時代以来、室町時代から織豊時代にかけても鮨(鮓)の多くを占めるのは鮎や鮒の「なれずし」であるが、

各時代の鮎や鮒などの同じ種類の鮨(鮓)の「飯漬け」期間を比較して、その期間の「短縮」が証明されていたわけではない。

奈良、平安時代においても、食材の種類や「飯漬け」の時季により、?酵の度合いには差があり、数日間の発酵のものもあれば、1、2箇月のものもあるとされる。

従来の見解は、数箇月間以上の「飯漬け」を行う現在[いつ?]の滋賀県の「ふなずし」を奈良時代以来の「なれずし」、これよりも「飯漬け」期間が遙かに短い和歌山県の鯖の「なれずし」などを「生成」であるとする理解から導き出されたものであるという。

そして、「生成の鮨(鮓)」とは、十分な熟成を経ない半熟の鮨(鮓)ではあるが、飯を共に食するというものではなく、

敢えて半熟状態のものを試みに賞翫するというもので、「鮒鮨(鮒鮓)」に限られていることから、これは「鮒鮨(鮒鮓)」の食方を意味する言葉であり、室町時代以降のそれまでの「なれずし」が「生成」になるという篠田統以来の従来の理解は誤りである。また、酢を調味料として食することに特徴があり、寿司に酢を用いる契機となったとされる。そのため、「ホンナレ」と「ナマナレ」という区別も改められなければならないことになる。

時代が下るとともに酒や酒粕、糀を使用したりと、寿司の発酵を早めるため様々な方法が用いられ即製化に向かう。そして1600年代からは酢を用いた例が散見されるようになる。

岡本保孝著『難波江』に、「松本善甫という医者が延宝年間(1673年-1680年)に酢を用いたすしを発明し、それを松本ずしという」とあるが、日比野光敏によれば「松本ずし」に関する資料は他になく、延宝以前の料理書にも酢を使った寿司があるゆえ「発明者であるとは考えられない」としている。

誰が発明したかはともかく、寿司に酢が使われ、酢の醸造技術も進んできて、いよいよ発酵を待たずに酢で酸味を得て食する寿司、「早寿司」が誕生することになる。

握り寿司(江戸前寿司)の誕生

「妖術と いう身で握る 鮓の飯」『柳多留』(文政12年(1829年)、作句は1827年)が、握り寿司の文献的初出である。握り寿司を創案したのは「與兵衛鮓」華屋與兵衛とも、「松の鮨(通称、本来の屋号はいさご鮨)」堺屋松五郎ともいわれる(詳しくは江戸前寿司・江戸三鮨を参照)。

『守貞謾稿』によれば、握り寿司が誕生すると、たちまち江戸っ子にもてはやされて市中にあふれ、江戸のみならず文政の末には関西にも「江戸鮓」を売る店ができた。天保の末年(1844年)には稲荷寿司を売り歩く「振り売り」も現れたという。

この頃には巻き寿司もすでに定着しており、江戸も末期、維新の足音も聞こえてこようかという時代になって、ようやく現代でもポピュラーな寿司が出揃った。 明治30年代(1897年-)頃から企業化した製氷のおかげで、寿司屋でも氷が手に入りやすくなり、明治の末あたりからは電気冷蔵庫を備える店も出てくる。

近海漁業の漁法や流通の進歩もあって、生鮮魚介を扱う環境が格段に良くなった。江戸前握り寿司では、これまで酢〆にしたり醤油漬けにしたり、あるいは火を通したりしていた素材も、生のまま扱うことが次第に多くなっていく。

種類も増え、大きかった握りも次第に小さくなり、現代の握り寿司と近い形へ変化しはじめた時代である。 大正12年(1923年)の関東大震災により壊滅状態に陥った東京から寿司職人が離散し、江戸前寿しが日本全国に広まったとも言われる。

江戸っ子

江戸っ子(えどっこ、江戸っ児)とは、江戸で生まれ育った住民を指す言葉。「さっぱりとした気風」や「いなせ」で「喧嘩っ早い」など、特定の気風を持った者を指す事が多い。

江戸住民を指す呼称としては、古くは「江戸もの」と呼び、明和以前には「江戸っ子」という表現は見受けられない。文献上の最古のものは明和8年(1771年)に作られたと思われる川柳「江戸ッ子のわらんじをはくらんがしさ」という句である。

また寛政9年(1797年)発行の洒落本『廓通遊子』にも江戸っ子という表記が見られる。文化文政年間頃には「江戸っ子」を自称するものが増加しているという指摘がなされている。この頃には江戸っ子は「浅薄で、向こう見ずで、喧嘩っ早い」という形容が成されていた。

多くの研究者は江戸っ子の性格として「見栄坊」「向こう見ずの強がり」「喧嘩っ早い」「生き方が浅薄で軽々しい」「独りよがり」などの点をあげている。

また「江戸っ子は三代続いて江戸生まれでなければならない」という概念もよく知られている。また江戸っ子の性格をあらわす表現としては「江戸っ子は五月の鯉の吹き流し、

「江戸っ子の生まれ損ない金を貯め」という川柳に見られるような「江戸っ子は宵越しの銭は持たぬ」という金離れの良さを著した言葉がある。

現代に見られる類型的な江戸っ子像として「金離れが良く、細かい事にはこだわらず、意地っ張りで喧嘩早く、駄洒落ばかり言うが議論は苦手で、人情家で涙にもろく正義感に溢れる」・「いきでいなせ」などと表現される短気・気が早い、などとも言われ、江戸っ子気質(えどっこかたぎ)などとも呼ばれている。

神に供えるすし

滋賀県の三輪神社に古来から氏子の人たちによって
神饌としてどじょうのすしが供えられております。


琵琶湖の南端にあたる滋賀県栗太郡栗東町の大橋というところにあるのが三輪神社です。
社伝によれば、建立は天正16年(744)、奈良・東大寺を開基した良弁僧正が大和の三輪神社から分祀して、大橋村の鎮守としたといいます。


言い伝えでは、ある時この神社に白い蛇が現れて
村に疫病が広まったことから、これを鎮めるべく人身御供の代わりにどじょうのすしを供えることになったといいます。


それがいつ頃からは定かではありませんが、およそ千年以上もどじょうのすしが神に供え続けられているのです。
どじょうのすしは日本各地にあったそうですが、現存するのはこの大橋村1箇所だけです。

わが国のすしの原型といわれる鮒寿し

千年以上の歴史を誇る、わが国のすしの原型といわれているのが近江(現在の滋賀県)の鮒寿しです。

滋賀県の琵琶湖一円、ことに湖東と湖北に多い馴れずしで、
今日各地に伝わるすしは、この近江の鮒寿しを起源として
分化していったものと考えられています。


滋賀県の高島にある『総本家 喜多品老舗』では、
ワタを抜いた鮒を長時間塩漬けにしたのち、
飯とともに本漬けにして馴れを待つという古来の製法を残しています。

御所に献上したすし

奈良県吉野の下市町に伝統を誇る『弥助』の釣瓶ずしです。

現在では惜しくも見られなくなりましたが、吉野川でとれる鮎を使った姿ずしで、すしを作るのに釣瓶形の曲げ桶を使ったことから釣瓶ずしの呼び名がついたそうです。


腹を開いて塩、酢をまわした鮎と、鮎の大きさに合わせて形づくったすし飯とをそわせて桶に詰めて作られました。

平安時代の延喜式にある鮎ずしの名残りをとどめているといわれたすしで、古くはこの釣瓶ずしを代々に渡って京都の仙洞御所(上皇の御所)に献上し続けた歴史を持っています。

早ずし

早ずし(はやずし)は、江戸前寿司を代表とする寿司の一種であり、酢飯と寿司種を使用する江戸の料理として広く広がった。

同じ寿司という名称を持ち、乳酸発酵を使用するなれずしとは異なる。

享保年間以降の鱒寿司は早ずしの一種とされる。江戸では、ご飯に酢などを混ぜあわせた酢飯を使用した寿司が作られ、これは屋台で立ち食いされる江戸っ子の料理として人気となった。後には、多くの国で「sushi」と呼ばれる寿司はこれら握り寿司を中心とした「江戸前寿司」である。

江戸前と呼ばれる新鮮な魚介類を使用し手早く調理し、調理したてを食べる。この調理法は人気となって、日本中に広がりはしなかったが、寿司の主流となった

稲荷ずしの発祥の地

正確な起源は定かではありませんが、『守貞漫稿』(嘉永6年、喜多川守貞著)に、
「天保(1830・4年)末年、江戸にて油あげ豆腐の一方をさきて袋形にし、木耳干瓢等を刻み交へたる飯を納て鮨として売巡る。


日夜売之ども、夜を専らとし、行灯に華表を画き、号て稲荷鮨、或いは篠田鮨と云、ともに狐に因ある名にて、野干(狐の異名)は油揚を好む者故に名とす。最も賎価鮨也。


尾の名古屋等従来有之、江戸も天保前より店売には有之輿。蓋両国等の田舎人のみを専らとする鮨店に、従来有之輿也」とあり、
これを拠りどころとして、名古屋発生説が巷説となっています。

油揚げを裏返して使う稲荷すし

『おつな寿司』の稲荷ずしは江戸末期、創始者であるおつなさんによって考案され、
その名前が愛称となった非常に歴史のある稲荷ずしです。

油揚げを裏返して使うのは、油ですべらずに早く飯が詰められるようにということからです。

明治、大正、昭和、平成と時代を超えて生き続けており、古い変わり稲荷ずしの先達とされています。

サバずし

サバずしといえば京都、サバのバッテラは大阪のものというイメージがありますが、
京都のサバずしは若狭でとれたサバが鯖街道を経由して京の都へ持ち込まれ、
庶民の家々で作り出された郷土食だったとされています。

街道とは、若狭の小浜から若狭街道を通り、途中近江の保坂で南下し、
朽木村に入り、安曇川の上流をさかのぼって花折峠、途中峠を越えて洛北の八瀬から大原に入る道筋で、
鯖街道の名前はいまでも残っています。

江戸前にぎりずしの誕生

にぎりずしの誕生には古くから諸説がありますが、いちばん人口に膾炙しているのは、
江戸時代の文政年間(1813・831年)に、両国の『輿(与)兵衛ずし』
初代の花屋輿(与)兵衛が考案したという説です。

輿兵衛は福井藩出身で、江戸に奉公に出て、何度か商売を変えた後、
文政年間に当時住んでいた本所横綱の近くで毎夜、すしを売り歩いて資金を貯め、
尾上町(両国の回向院前)に小さな店を持って『輿兵衛ずし』の看板を掲げ、
この店が江戸のにぎりずしの元祖だとされています

すし売りの歌

『天言筆記』の引化3年(1846年)の江戸期のすし売りをうたった俗謡に、
「坊主だまして還俗させて稲荷のすしでも売らせたや」とうたわれております。
その中には「去る巳年(引化二年)十月頃より、稲荷ずし流行せり」
「暮時より夜をかけて往来のしげき辻々に出て商うなり」とあります。

当時の稲荷ずしの流行によせて、新興宗教である稲荷信仰をふまえ、
既成の宗教に対するからかいをうたったものとされています。
後年、知られるようになった「坊主だまして還俗させてこはだのすしでも売らせたや」
はその本歌の改作。 坊主だまして還俗させて稲荷のすしでも売らせたや

江戸時代のすしダネの王

現代ではマグロに地位を奪われたものの、
江戸の昔からにぎりずしの王様ダネとされたのがエビ(もちろんクルマエビ)。
江戸前の魚介が使われたのはいうまでもなく、エビのほかにシラウオ、ヒラメ、キス、
サヨリ、アジ、コハダ、貝類などが使われ、巻ものは海苔巻くらい。
今日のすしダネの筆頭格であるマグロは、江戸末期の大衆店から使われ始めたそうです。

握りの大きさの変遷

にぎりずしが2カンずつ出されるようになったのは、正確な事は不明なものの、
現在のような2カンづけは戦前はごく一部の店に限られたようで、
一般的になったのはすし飯の量が減ってすしが小ぶりになった、戦後からといわれています。

昔のにぎりずしは今よりもずっと大きく、
ひと口半かふた口で食べるのがやっとという大きさだったので、1カンずつ出すのが普通でした。
屋台のすしなどは、ちょっと小腹をふさぐスナック食として食べられたそうです。

酒を売らなかった屋台のすし

料理屋風のすし店は別として、昔の屋台の店では酒を扱っていませんでした。
その理由は、屋台ではすし職人1人でなにもかもしなければならず、
忙しくて酒まで手が回らなかったことと、お客もまた、
屋台のすしで酒を飲もうという考えがなく、あくまでもすしを食べることが目的だったからです。

お茶の湯のみ茶碗が大きいのも、
何度も入れ替えをしなくて済むようにという屋台店から始まったサービスで、
それが現在のすし店に受け継がれています

内店(うちみせ)と屋台店(やたいみせ)

明治、大正時代の江戸前すし店は、内店と呼ばれる店と屋台店とに分かれていました。
内店はお客様が小上がりの座敷に座って
すしを食べられるように設えられてはいましたが、圧倒的に出前が中心の商売です。
屋台店の方は椅子はなく、お客様は立ったまますしを食べる立食です。

しだいに、内店が屋台店のスタイルを取り入れていきましたが、
やはり最初は立食のスタイルで、後に椅子が置かれるようになり、
今日のすし店の営業形態が始まっていったのです。

当時は、内店は出前やお土産用のすしをお客様の注文によって作るだけ、
屋台店はその場ですしを食べていただくというように、はっきりと分かれていました。

 すし・すしダネの知識

にぎりずしには慣習上、「赤身」「白身」「光もの」「煮もの」「貝類」といったすし店特有のすしダネの区分があります。「赤身」「白身」は魚肉の色の違い、「光もの」は背の光った小型の魚、「煮もの」は加熱調理して煮つめをぬるものを指し、「貝類」は文字通り、貝を使ったタネのことです。

なお、この検定では「すしダネ」または「タネ」という言葉を用いておりますが、地域やお店によっては「ネタ」という言い方もされますので、同じ意味としてご了解くださるようお願い申し上げます。

01. 赤身のタネ

「赤身」のタネにはマグロの赤身や中トロ、大トロ、カツオがありますが、実態としてはマグロ類にはクロマグロ(ホンマグロ)、メバチ、キワダ、ビンナガ、インドマグロ(ミナミマグロ)、大西洋マグロがあり、キハダ類にはマカジキ、メカジキ、シロカワカジキ、クロカワカジキ、バショウカジキがあります。また、サケ、マスも伝統的な赤身ダネです。

02. 白身のタネ

白身」のタネにはタイやヒラメを筆頭に、サワラ、カレイ、スズキ、カンパチ、シマアジ、ブリ、ハマチ、イサキなどが使われます。昔のすし店では限られた種類の白身しかありませんでしたが、戦後の冷凍・冷蔵設備の向上や輸送の進展によりその種類は時代とともに増えています。

03. 光もののタネ

「光もの」として扱われるのはコハダ、アジ、サバ、キス、サヨリ、カスゴ、イワシ、サンマ、イボダイなどがあり、これらは多くが酢でしめられて使われるのが大きな特徴です。しかし、近年はアジ、キス、サヨリなどは生のまますしににぎるところもあります。

04. 煮もののタネ

「煮もの」のタネはアナゴをはじめ、イカ、アワビ、ハマグリ、タコ、シャコなどがあります。イカやアワビは、現在では生で供することが多くなっていますが、伝統技術を残すすし店ではアワビの塩蒸しや煮アワビ、煮イカのすしをいまだに煮ものダネとして供しています。加熱調理したタネという観点から、玉子焼をここに加える考え方もあります。

05. 貝類のタネ

「貝類」は原始時代の貝塚の発見に見るとおり、日本人の食用としては古く、すしとしての歴史も奈良時代の記録にはすでにアワビ、イガイのすしの名が見られ、江戸前ずしとしても古くから使われてきました。

ただし、昔は二杯酢や三杯酢に漬けてからすしににぎっており、現在のように生でにぎるようになったのは関東大震災以後のことです。赤貝、トリ貝、タイラ貝(タイラギ)、アオヤギ(バカ貝)、アワビ、ホタテ貝が標準ダネとされます。

06. カジキとマグロは別科

「赤身」のすしダネにカジキ類が入ることを述べましたが、これをカジキマグロと呼んで、マグロの仲間だと思っている人が多いですが、魚の分類上はマグロ類はサバ科、カジキ類はマカジキ科とメカジキ科の魚とされているので、厳密にはカジキマグロという呼称は間違いになります。カジキ類はマグロ類とは種類が違います。

07. マグロの台頭

今日、にぎりずしの筆頭とされるマグロは、昔は下魚として扱われていました。マグロが江戸前ずしに登場するのは、いまから130・40年前の天保年間とされ、マグロがとれすぎて非常な安値になり、試しに屋台店が使ってみたところ、扱いとしては下魚であっても意外に江戸っ子の人気をさらったといわれています。ただし、この頃から明治半ばまでは醤油に漬ける“ヅケ”としてにぎられ、もっぱら脂肪の少ない赤身が使われました。

トロはもっとも価値がなく、高級店は背の身の方から選んだそうで、腹の身しかない場合は脂肪の多い部分を河岸にひきとってもらいました。マグロの種類も明治・大正の頃までは出前が主なので、時間がたっても色の変わりにくいマカジキやキワダの方が好まれました。現在のように脂肪の多い部分が好まれ、クロマグロが高級品になるのは関東大震災以後であり、トロに人気が出るようになったのは屋台が盛んになった昭和初期からです。

08. 出世魚

出世魚とは成長にしたがって呼び名が変わる魚のことです。すしダネの中ではコハダが代表的で、東京あたりでは4~5cmの幼魚をシンコまたはジャコと呼び、7、8cmから10cm程度のものをコハダ、12~13cmのものをナカズミ、15cm以上をコノシロと呼びます。ちなみに、学名はコノシロ。東京ではシンコ以後はコハダと呼び慣らすことが多く、関西ではツナシの一語で通じます。すしに使われる出世魚には、ほかにブリ、スズキがあります。

09. さばのことわざ

・サバの生き腐れ
サバの腐敗が早いことを言ったもので、ちょっと見には鮮度が高いように見えながら、内側の肉の方はすでに腐っていたりする意味です。
・サバ読み
数量をごまかすこと。昔は魚の売買を数をかぞえるやり方をしていたことから、多量の売り買いになるほど数にごまかしがききやすいことからいわれます。
・秋サバは嫁に食わすな
秋サバの旨さをあらわす喩えによく使われますが、姑の嫁いびりとか、あるいは「サバの生き腐れ」に当たらないようにという親心とも、秋のサバは脂肪がのっていても子がないので、縁起をかついで嫁に食わすなという心づかいとも解釈はいろいろです。

10. サクラダイとムギワラダイ

白身の王様といわれるタイ(マダイ)は周年美味といわれていますが、脂肪がよくのり、体の鮮紅色が一段と鮮やかになるのは産卵期の直前で、この時季は産地で桜の花の咲く頃と重なることから「サクラダイ」と呼ばれる旬に当たります。産卵期およびその直後のものは味において劣り、ちょうど麦の実る頃と同じになるので「ムギワラダイ」と呼んで区別されています。

11. エンガワ

すしや刺身でことのほか珍重される「エンガワ」は、ヒラメやカレイのヒレのつけ根にある身のことです。ヒラメやカレイのヒレは大きく、よく動かすのでつけ根の部分が発達して、身がしまっている上に脂ものっています。1枚のヒラメからわずか4本のエンガワしかとれないので、その希少性とともに高級すしダネとして扱われます。

12. ハモ、アナゴ、ウナギ

江戸前ずしのアナゴ、関西ずしで使われる夏を代表する白身魚のハモ、そしてウナギは、広い区分けではウナギ目としてまとめられ、それぞれアナゴ科、ハモ科、ウナギ科に分かれます。

実際、この3種類は体は細長い円筒状で、背ビレ、尾ビレ、尻ビレは1本につながっており、腹ビレがないという共通点があります。昔、北海道ではアナゴのことをハモとも呼びましたが、これはアナゴが悪食で何でも食べてしまうため、「食む」(はむ)が訛ってハモになったと考えられています。

13. イカの印籠詰め

江戸前ずしの古いすしの形に「イカの印籠詰め」というのがあります。スルメイカやヤリイカを甘く煮た胴の中に胡麻や海苔、かんぴょう、ガリなどの具を混ぜ込んだシャリを詰め込んだすしです。印籠とはその昔、薬などを入れて腰に下げた長円筒形の小箱のことで、その形から連想して名づけられ、戦前までは江戸前すし店ではごく当たり前に出されていたすしです。

14. 海老のオドリ

きたクルマ海老を殻をむいてそのままにぎるすしを「オドリ」と言います。すしににぎった直後でも海老がピクピクと動いていることからの呼び名で、東京でこのすしが見られるようになったのは戦後から、関西では戦前からすでにあったそうです。

15. バカ貝が正式名称

アオヤギ(青柳)は、千葉県の青柳(内房の五井と姉崎の中間にある地域)で多くとれたことから、主産地の地名で呼ばれるようになった珍しいケースです。正式名称は「バカ貝」。どうしてバカ貝の名前がついたのかは不明ですが、一説には干潮時になるとこの貝が口をあけて長い舌をペロリと出している姿が馬鹿のように見えるからといわれます。

16. イクラ

子どもにも人気のあるすし「イクラ」はサケの卵ですが、この名前はロシア語のikuraです。イクラはチョウザメからキャビアをとることからヒントを得て、ロシア人の知恵から生まれたといわれています。すしに使われるようになったのは戦後からで、卵巣膜のまま塩漬けにするのがスジコ、卵巣膜をとりのぞいて卵を一粒一粒ばらして生、または塩や醤油などに漬けるのがイクラです。

17. 主な関西ずし

関西ずしの主な種類には、大阪を代表する「箱ずし」や「小鯛雀ずし」、「サバの棒ずし」や「バッテラ」、「松前ずし」、「巻きずし」などがあります。これらは醤油を付けず召し上がっていただけ、事前に調理した材料を使用する為に、にぎりずしに比べて時間持ちがするという特徴があります。

18. 箱ずし

「箱ずし」とは、「一枚箱」とか「二枚箱」とか呼ばれている箱で押したすしです。その箱は「白身の箱」「ケラの箱」「焼き身の箱」の3種類の箱を組み合わせてつくります。白身の箱はコダイ、ケラの箱は厚焼き玉子、海老、白身魚の3種、焼き身の箱にはアナゴ、またはハモなどのネタが使われるのが一般的です。

3 種類の箱ずしは、一枚箱の場合は6切れに切り、二枚箱は12切れに切り、白身2切れ、ケラ2切れ、焼き身2切れの計6切れの組み合わせを箱ずし1箱分とします。この様式が確立されたのは明治時代の中期、大阪船場、淡路町の吉野寿司三代目、寅三がそれまでの大衆魚から小鯛、車えび、厚焼き玉子等、高級な食材を使い、焼く、蒸す、煮る、酢で締める等の手間をかけ、二寸六分の箱で押した見た目にも美しいすしを考案、その前身は一般に、江戸期の柿(コケラ)ずしとされています。

それが船場の旦那衆に大いに受け、大阪の郷土料理として現在に受け継がれています。箱ずしは、江戸前のにぎりずしに相当する位置をしめており、普通に大阪ずし一人前(盛り合わせ)といえば、箱ずしと巻ずし、伊達巻などで一人前をつくります。

また、大阪のすし屋用語では、現在でも箱ずしのことをケラ、またはコケラずしとも呼んでいます。漢字で柿(コケラ)と書くのは古く平安時代から用いられた言葉で、屋根を葺くときの薄くはいだ板のことをいい、その柿葺きのように薄く切りつけたネタを箱の中に詰めたすし飯の上に並べて押すことから柿(コケラ)ずし、略してケラずしといわれています。

19. 小鯛雀ずし

「小鯛雀ずし」は大阪・福島の名物であった「雀ずし」が起源で、これは江鮒(エブナ、ボラの子)を背を開いて塩をしたものに飯を詰めこんだ生成のすしで、飯のために魚の腹がふくれて雀の形に似ているところからついた呼び名と考えられています。

この江鮒を小鯛に変え、早ずしとしたのが「小鯛雀ずし」で、大阪の老舗『小鯛雀鮨 鮨萬』初代が創始したすしです。天明元年(1781)に、宮中(京都御所)にすしを納めることになったことから江鮒を小鯛に変えたのが始まりと記録にあり、200年以上の歴史を持ちます。ちなみに、「小鯛雀ずし」は『小鯛雀鮨 鮨萬』の商標登録です。

20. 関西のサバずし

関西ずしにおけるサバずしを大別すると、「棒ずし」(別名、姿ずし)「松前ずし」「バッテラ」の三つに分かれます。このうちもっとも古いのは「棒ずし」で、「松前ずし」と「バッテラ」は明治時代に始められました。 「サバの棒ずし」は魚の姿の形を活かすという点からみれば、日本のすしの源流であるとされる近江の鮒ずしなど、各地の現存する古いすしの系譜に入るものと考えられています。

しかし、製法的には長時間漬け込んで自然発酵を待つ馴れずしとは異なり、酢を使って短時日にすしにしてしまう早ずしになります。元来、郷土ずしであった京都の「サバの棒ずし」を「鯖姿寿司」として完成させたのが祇園『いづう』の初代、いづみや卯兵衛であり、いまから約230年前の天明年間になります。「サバ棒ずし」が全国的に知られるようになったのも『いづう』の功績が大きいといわれています。

「松前ずし」は、北海道の松前昆布を肉厚の鯖寿司の上に巻いた棒寿司の事で、当初は、「昆布巻ずし」などと呼ばれていましたが、明治45年に大阪の『丸万』が「松前ずし」の名前で商標登録してから、その呼び名が広まりました。その後、『丸万』が登録をはずしたので誰でも使える一般名称になっています。すしを押す際には、布巾または、専用の長箱を使いますが、その箱にはいろいろな種類があります。

21. バッテラ

「バッテラ」は明治27~28年頃、当時、大阪湾でコノシロが大量にとれたことからそれを『寿司常』が布巾じめにして売り出したのが始まりです。その形がボートに似ていることからバッテラと呼ばれるようになりました。

バッテラはボートを意味するポルトガル語の“バッテイラ“(bateira)が訛ってできた言葉です。その後、コノシロの値が上がり、かわって安いサバが使われるようになり、舟型では材料のロスが出やすいことから、今日見るような長方形のすし型に改良されました。具体的には、サバの押寿司の上に半透明の白板昆布を巻き、6切れに切ったものです。

22. 小袖ずし

すしの切り口の断面が着物の小袖の形に似ていることから小袖ずし。折詰や特別な注文のときや、趣を添えるすしとして作られることが多く、材料にはサバ、コダイ、エビ、紅ザケ、ヒラメ、アジなどが使われ、昆布〆にして棒ずしにします。

23. 江戸前ずしと関西ずしの違い・シャリの違い

関西ずしではご飯を炊くときに、水にだし昆布を入れて炊き、合わせ酢には江戸前ずしに比べて砂糖の量を多く使い、濃い目に味つけします。 炊き上がったご飯に酢を合わせるときも、江戸前ずしの場合はウチワや扇風機で風を送って余分な酸味を蒸発させ急激に温度を冷ましますが、関西ずしでは比較的ゆっくりと冷まし、ご飯の中まで酢をしみ込ませます。

24. 江戸前ずしと関西ずし・海苔の違い

すしの巻もの全般を江戸前では「海苔巻」、関西では「巻ずし」というのが、一般的な通り名です。また、江戸前の巻ものは焼き海苔で巻いて香りとパリッとした歯ざわりを出すのに対し、関西では海苔を生のまま使います。焼き海苔に比べて海苔が破れにくく、ある程度の時間をおいても色ツヤの変わるおそれがないからです。

25.寿司とは「鮨」「鮓」である江戸前ずしと関西ずし・海苔巻きの違い

江戸前の海苔巻には丸く巻くものと、四角に巻くものとがあります。丸く巻くものは中の芯(具)を見せずに横に並べて使うもので、主として折詰や盛り込みに使われます。四角く巻くものは芯を見せるように、立てて使うものです。

関西ずしで巻ずしといえば、多くが太巻をさしており、大きな位置をしめています。その理由は、大阪や京都は寺が多く、仏事の折りは精進巻がかならず配られたという庶民の生活と関わりが深かったからといわれています。

26.寿司とは「鮨」「鮓」である

熟れ鮨の「ズシ」の字を見て判るように、昔は寿司を「鮨」もしくは「鮓」と書いていました。『魚へんに旨い』、『魚へんに酢っぱい』と書いていたのです。

乳酸発酵によって、米などの穀物が持つでんぷんや糖質は分解されてドロドロになります。この時乳酸菌は酢酸などを生成し、ビタミンと酸っぱさを加えていきます。この酸っぱさが不思議と魚と米を結びつけ、美味にすることを知った日本人は鮨・鮓を寿司へと昇華していくのです。

27. 鮨・鮓の拡散

さて、熟れ鮨として伝わった寿司ですが、中国は宋の時代に最盛期を迎えたと言われています。乳酸菌の力を利用した健康食品である鮨・鮓を愛し、

魚から動物の肉から野菜と漬け込んで行き、終いには昆虫までも鮨・鮓にしたと伝えられています。鮨・鮓が日本に伝わってきたのは、おそらく縄文時代の後期に稲作と共に伝わってきたと考えられています。鮨・鮓は日本においては宋に負けないほどに愛され、年貢として納められたという記録が残っているほどです。

28.「鮨」・「鮓」が「寿司」になった

さて、魚を米などで乳酸発酵させた「鮨」「鮓」が酢飯で魚を握る「寿司」になったと言いましたが、一体何時ごろから「鮨」「鮓」ではなく「寿司」の字を当てるようになったのでしょうか? それはおそらく、華屋與兵衛(はなやよへい)が店を開いた頃ではないかと考えられています。

なぜなら、縁起を担ぐのが当たり前の江戸っ子です。初鰹をありがたがり、酉の市では熊手を買い求め、伊勢参りが最大のレジャーであったのです。寿司は「寿、目出度いことを司る」食べ物であると宣伝すれば、江戸っ子たちは「それじゃあ、ちょいと寿司で摘もうかい」と財布の紐を緩めるでしょう。つまり「寿司」とは当時の宣伝が現代まで残ったものなのです。

29.西洋寿司

すでに1910年(明治43年)華屋與兵衛の子孫、小泉清三郎著『家庭鮓のつけかた』には、ハム(またはコールドミート)を使ってコショウをふった巻き寿司があり、江戸前寿司(早寿司)は様々な材料を受け入れやすい素地があった。

1970年代アメリカ西海岸を中心に、寿司は一大ブームとなり、その中で生まれた「カリフォルニアロール」は大いにヒットして日本にも逆輸入された。1975年(昭和50年)『すし技術教科書』の「新しいすしダネとすし」には、キャビアやセップ、ロブスター、納豆、じゅんさい、など、100種類にもなる新しい寿司ダネが紹介されている。

現代の寿司店では、ありとあらゆる食材が寿司として提供される一方、古典的な材料・手法を守る店も人気があり、むしろ高級・高価である。そして、寿司は主に外食の料理となり、家庭で作られる寿司は減少している。

30.戦後の寿司

第二次世界大戦直後、厳しい食料統制のさなか、1947年(昭和22年)飲食営業緊急措置令が施行され、寿司店は表立って営業できなくなった。

東京では寿司店の組合の有志が交渉に立ち上がり、1合の米と握り寿司10個(巻き寿司なら4本)を交換する委託加工として、正式に営業を認めさせることができた。

近畿をはじめ日本全国でこれに倣ったため、日本で寿司店といえば江戸前ずし一色となってしまった。当時を知る職人は、「あらかじめダミーの米を入れる袋を用意して店頭に置き、取り締まりを逃れて営業したこともある」と述べている。 戦後の高度成長期になると、衛生上の理由からすでに屋台店は廃止され、廉価な店もあるにはあるものの、寿司屋は高級な料理屋の部類に落ち着いた。

1960年代から1970年代にかけて、サラリーマンを題材とした漫画では、夜遅くまで外で飲み歩いた亭主が、妻の機嫌を取るために寿司の折り詰めを買って帰るという姿が描かれることもしばしばあった。

31.世界の「sushi」へ

長い鎖国が解かれ、明治になると移民として南米へ、北米へと渡る者も多く、各地で日本人コミュニティが生まれた。アメリカ合衆国で最初の日本料理店「大和屋」がサンフランシスコに開店したのが1887年。

ロサンゼルスでは、後にリトル東京と呼ばれる地域に日本食レストラン「見晴亭」が1893年開店し、1903年に蕎麦屋、1905年には天ぷら屋、そして1906年には寿司屋が開店する。戦前のリトル東京の日本料理店は、主に最大数万人規模のコミュニティにまで膨れ上がった日系人のための食堂であった。しかし、第二次世界大戦でアメリカ合衆国と敵対国になったことにより、日系人コミュニティは強制収容という形で衰退してしまう。

戦後のリトル東京の寿司屋は、しばらく1930年代に創業した稲荷寿司と巻き寿司、型抜きした酢飯に魚を乗せただけの寿司を提供する店一軒のみであった。1962年にガラスのネタケースが海を渡り、老舗日本料理店「川福」の一角に本格的なカウンターを設えた「sushi bar」[注釈 5]ができ、続いて「栄菊」、カリフォルニアロール発祥の店となる「東京会館」も、

1965年にネタケースを設えて「sushi bar」は3軒となった。当初は寿司を食べる欧米人はほとんどいなかったが、1970年代に入ると徐々に欧米社会にも受け入れられ、1970年代後半には寿司ブームともいわれるほどに成長していった。

しかし海藻を食べる習慣のない欧米人からは、海苔は黒い紙のように見え気持ち悪がられたため、酢飯で海苔とタネを巻く「裏巻き」と呼ばれるスタイルが流行することとなった。「すしバー」では江戸前寿司だけでなく、各店で独自にアレンジした料理も提供され、欧米では「すしバー」の名称が正統派の寿司店や寿司レストランを含む総称になりつつあるとも言われている。

ロサンゼルスで火のついた寿司ブームは、その後日本の経済的進出も相まって、アメリカを中心とする世界各地に急速に広まった。1983年には、ニューヨークの寿司店「初花(Hatsuhana)」が、ニューヨーク・タイムス紙のレストラン評で最高の4ッ星を獲得しており、この頃までには高級フランス料理店に並ぶ評価を得る寿司店が出現するまでにイメージが転換していたことが窺える。

現在、「スシ」は天ぷら、すき焼き等と並ぶ日本食を代表する食品になっており、日本国外の日本食レストランの多くでは寿司がメニューに含まれている。特に北米では人気があり、大都市では勿論、地方都市のスーパーマーケットですら寿司のパックや巻物が売られていることが珍しくない。

回転寿司は、気軽に食べられることやシステムの面白さなどで外国でも人気を得るようになったが、文化の違いから「正しい」楽しみ方はしていないと不満を感じる日本人もいる。 世界各地のスシ・レストランには中国人、韓国人など日本人以外の経営・調理によるものが増加し、日本人による寿司店の割合は10パーセント以下とまで言われるほど減少している。

そのため、日本の伝統的な寿司の調理法から大きく飛躍(あるいは逸脱)した調理法の料理までもが「スシ」として販売されるようになった。酢をあわせていない飯に魚や中国料理を乗せて「スシ」だと称するところまである(日本国外における寿司職人養成の一端に付いては、前述の項目「寿司職人 (しょくにん)」を参照)。

更にはご飯も魚介も関係なく、一つの食材の上に別の食材を置いた料理を「Sushi style」と称して客に提供する星付きレストランまで現れた。このような現状[いつ?]から日本の農林水産省は「正しい日本食を理解してもらうための日本食の評価」を日本国外の日本食店に行う計画を打ち出したが、欧米の一部には、これを新しい食文化の誕生を疎外するものであると批判的に見る向きもあった。

日本でも、アメリカの新聞・ワシントン・ポスト紙が2006年12月24日付け記事で用いた「スシ・ポリス(Sushi Police、スシ警察)がやってくる!」との表現が取り上げられた。このような反応を受けて農水省は認証制度の導入を止め、和食の国際的普及を目指す特定非営利活動法人(NPO)の「日本食レストラン海外普及推進機構(JRO)」が民間の立場から推奨店を決定する方式を取ることとした。

経済発展が著しい中華人民共和国、香港、台湾やロシアでも寿司ブームが起こった。元来これらの国では魚を生食する文化はなかったが、富裕層を中心に愛好家が増えている。日本人が寿司文化を世界に広めたために、今度は寿司種が世界市場で高騰すると言う現象が起きてしまっている。